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発展する巨大都市東京 Tokyo Metropolis

上空から東京を望んで

今日の東京
二十一世紀も発展し続ける街、東京。この巨大都市は、徳川幕府の時代に入ろうとした とき、江戸湾岸に建設されました。 現在は、東に荒川、隅田川、西に中仙道、南に東京湾、北に多摩丘陵を持つ理想的な地形に見えます。しかし、当時、江戸は人が住むのには、最低最悪の地域だったのです。江戸時代以前には、東京や江戸などという土地は無かったのです。 つまり江戸は、奈良や京都などとはまったく違った人工の街になったのです。 最悪の場所の原因は、河川にありました。

暴れ川 Violent River

江戸時代以前の江戸

恒常的水害
江戸の東側には、暴れ川が多く、年中洪水水といった水害を引き起こしていました。その辺は、湖が後退した ばかりの湿地帯で、少しの雨でも、江戸の東から今の銀座のあたりまで水没していたのです。 江戸の東側には、古利根川の墨田川や中川といった暴れ川が多く、年中洪水や冠水といった水害を引き 起こしていました。現在の銀座周辺は日比谷入り江という湾でした。

江戸湾に注ぎ込む河川 Rivers in Tokyo

入り江の埋め立て後の江戸と江戸城

東京の河川
西から東に流れるあばれ川というのは荒川です。
現在の埼玉県あたりではとなりの入間川と同時に氾濫し、その一帯を水没させていました。この荒川の支流は、現在の隅田川なります。また、別のあばれ川は太日川(たひがわ)で、下流では、今の江戸川になります。最も氾濫が大きかったのが利根川で、そばに流れるいくつかの河川が集まって、現在の江戸川放水路近辺に流れ出ていたのです。江戸はその名の如く、多くの河川が流れ出る湾をふちどる湿地帯だったのです。たとえば、京都から東海道を上って海沿いに旅してくると、この利根川が自然の障壁となり、江戸あたりで行き止まりとなったのです。したがって、そこから東の千葉や茨城などにはまったく、行くことができなかったのです。

壮大な治水工事 Flood prevention works

現代と江戸時代の利根川

江戸を作るために、暴れ川と闘う。
 徳川家康は、江戸を政治の中心とし、未来に渡って繁栄を築くためにも、この河川の氾濫が多い地域の治水を改良することが不可欠と考えました。
暴れ龍の川、利根川の首を切り落とす。
さらに、霊的にも改善を施すために、風水の知識を注ぎ込み、江戸城を中心として、壮大な都市計画を実行したのです。江戸の大工事は、水を治めて下町を作ることから始まりました。江東を流れる三本のあばれ川の力を分けるために、利根川を江戸湾ではなく千葉のほうへ流すことにしたのです。

暴れ龍の川、利根川 Tone River

徳川家康

暴れ龍の川、利根川の首を切り落とす
 江戸時代以前は川は暴れる龍にたとえられていました。徳川家康の死後も江戸の街を作るため何度のも失敗を繰り返しながら家康の意思を継ぎ治水工事は行われてきました。寛永年間、一六ニ一年から三十年余りの歳月を掛け、利根川本流を銚子の先から太平洋に吐き出させました。まさしく、あばれ龍で最も大きな一頭の首を切り落とし、残った胴体を東に向けさせたことになります。この切り落とされた首根っこの名残りが、旧江戸川で、さらにこれを新しく飼い慣らした様に見えるのが、現在の荒川なのです。そしてここには、中川もまとめられているのです。

墨田川 Sumida River

墨田川の両国橋

墨田川の大工事
さらに、現在の墨田区と江東区の間を流れる墨田川。この川は以前は大川とも呼ばれ、江戸以前は、入間川から流れ込む水を溢れさせていました。寛永年間、 1624年から20年を掛け、入間川から切り離される工事が行われました。荒川と入間川という龍の首二つが切り落とされ、江戸の飼い龍になったわけです。同時に江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年に仙台堀(神田川)を開削したことにより、武蔵野台地の端の湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となりました。お茶の水駅の北の堀が深いのもこのためで、神田川は江戸城の外堀となりました。

風水と河川 Feng Shui and rivers

川越の天台宗別格本山中院

風水思想の反映
1653年にはに多摩の羽村から四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルにわたり玉川上水が築かれました。江戸市中へ飲料水の供給を可能としました。
この江戸河川の大工事こそ、まさに、風水の考え方を表していたのです。
なぜなら、風水とは、台風や水害から土地を守るという考え方に他ならないからです。すると、龍の切り落とされた首のあたりに、暴れ龍封じのために要石か護符が置かれなければならないことになります。その近くにある神社仏閣が、それになります。

誰が江戸の街を霊的に造ったのか? Who built Edo?

天海僧正

計画を立案した天海僧正
江戸に霊的な防御を形造ったの は、天台宗の天海僧正だといわれています。
天海僧正は、江戸に風水のバリアを張り巡らせるために多くの神社仏閣を建立しました。 わたしたちが見かけるたくさんの神社や寺には、風水的に多くの呪術が施されています。 天海の風水とは、どんなものなのでしょうか。関ケ原の戦いに勝利した後、家康は、1603年に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされています。天海は古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えを参考にして、江戸が幕府の本拠地に適しているしたとされています。中国の北京や韓国のソウルも風水思想に基づき設計されたと言われています。また香港ビルの設計にも風水思想が強く繁栄されています。

 

江戸に風水を策した僧侶、天海 Feng Shui by Tenkai

風水版

天海の素姓
天海は、京都を守護する比叡山天台宗のお坊さんでした。ただその前半生は全く謎に包まれています。
第3代将軍「徳川家光」の乳母の春日局は光秀の重臣、斎藤利三の娘、家光の光は光秀の光と言われていることから
「天海=明智光秀」説がいまだに信じられています。別人だとしても、光秀が比叡山のふもとの坂本城にいるとき何らかの接点があり、 光秀の思いが天海を通じて徳川家康に伝わったのではという説もあります。
もう一つの説は光秀のいとこの明智秀満が天海とほぼ同年齢ということから本能寺の変の後、坂本城で自決せず生き延び、坂本城の近くの比叡山に入り天海と名乗ったというものです。
天海は神道や密教、さらには風水秘術などを習得した江戸時代初期の最も力のあるオカルト能力者だと信じられていたのです。 おそらく、天海は江戸をも京都に似せて天台宗の呪術で守護しようと考えたと思われるのです。

川越にある喜多院 Kitain Temple in Kawagoe

喜多院慈恵堂

川越という地名の由来
天海が川越にある喜多院の住職になった時、天台宗の関東総本山として、ここを東の比叡山 、東叡山と名づけました。川越という土地も、その名が示すように川を越える土地、つまり入間川と荒川、 二つの龍を押さえるための場所になっているのです。慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師をまつっています。1639年の大火以後、いち早く再建されました。

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