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人物

天海僧正

慈眼大師天海
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。 徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

徳川家康

徳川家康
1543年~1616年戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平元康。関ヶ原の戦いに勝利したことで1603年に朝廷より征夷大将軍に任せられ、続く大坂夏の陣により豊臣氏を滅し、260年間続く江戸幕府を開いた。三英傑のひとりである。

明智光秀 

明智 光秀
1513年 1516年 1528年 1526年 1540年説~1582年光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけて武将・大名。明智十兵衛とも。美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。 元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。 天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も新二条御所で自刃に追いやった(本能寺の変).

明智 秀満(あけち ひでみつ)1536年-1582年? 女婿または異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない。織田家家臣の明智光秀の重臣。

斎藤利三

春日局の父
1534年~血統的には、斎藤道三とは別の系譜で、本来の美濃斎藤氏の一族。ただし家系には諸説あって判然としない。 父は斎藤伊豆守(諱は利賢、豊後守利忠とも)、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である。親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。徳川実紀には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」と書かれているが、後世に編纂されたもので、根拠は不明。斎藤利三と明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。史料として光秀の妹と記されているのは光秀の正室(妻木氏)の姉妹である。その母は、石谷光政に再嫁し、娘(長宗我部元親正室)をもうけた。 前室は斎藤道三の娘であったというが、史料的な裏付けはない。後室は稲葉一鉄の娘で、斎藤利宗、斎藤三存、 それに末娘の福(春日局)らを産んだ。福は稲葉重通(一鉄の子)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、権勢を誇った。

春日局

徳川家光の乳母
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく)1579年-1643年
安土桃山時代から江戸時代前期の女性で江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号です。父は斎藤道三とは別系統の美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安もしくは稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。
福は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで関ケ原のすぐ北、美濃の清水城で過ごし、母方の親戚に当たる公家の三条西公国に養育された。三条西実条朝廷から武家伝奏に任じられ、最終的には右大臣になった。これにより、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女なり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)25歳の時にに2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、 元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
異説として
・通説では春日局は徳川家光の乳母であるが、家光の生母という説。
・家康が実父ではないかという説。家康への尊崇ぶりと「二世権現、二世将軍」と書いた紙がある。また冷徹な春日局(明智系)が、自分とは不仲な江(織田信長の姪であり、豊臣秀頼の母、淀君の妹)の産んだ家光に過剰なまでの優しさを向けていたことにも疑念がる。江は家光の弟のの忠長を3代将軍につけようとしていた。
・成人するまで美濃の清水城で過ごしたときに生き延び美濃の山県に隠遁していた明智光秀と会い、直接薫陶を受けていたとの説。

明智光秀⇒徳川家康⇔天海 

        徳川家康 日光の家康の墓所 久能山東照宮の後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額 江戸城富士見櫓               浜松城

光秀、家康、天海の関係の数々の異説
「天海=明智光秀」説は都市伝説だとしても徳川幕府は光秀の重臣 斎藤利三の娘、春日局( 一説には斎藤利三には光秀の妹が嫁いでいるので光秀の姪にあたる)が大きな力を持っていたことから 徳川家は明智家ゆかりの人を保護している。 このことからも明智家は徳川家に何らかの影響を与えたのは明らかではないかと言われています。

 

・徳川幕府における明智家の関連は以下の通り。
ア.斎藤利三の娘春日局は三代将軍徳川家光の乳母として大奥を差配した。 家光の実母という説もあり「光」は光秀の偏諱ともいわれている。
イ.斎藤利三の長兄 利宗は1629年に召し出されて常陸国真壁郡で五千石。斎藤利三の三男 三存は下総国他五千石等、徳川家の関東地区の旗本として使えてました。
ウ.光秀の娘 細川ガラシャの血を引く熊本細川藩は肥後熊本藩54万石の太守となり幕末まで統治していた。(その後、細川家は細川 護熙 熊本県知事、そして総理大臣を輩出した。)


・明智光秀と天海、徳川幕府を語るときにはいくつかの説が露見してきました。
1.天海と光秀とは無縁だという説。だとしても家康は光秀を尊敬するか恩義を感じているのでゆかりの者たちを重用したという説。
2.仏教に帰依する光秀が比叡山のふもとの坂本城にいるとき何らかの接点があり、光秀の思いが天海を通じて徳川家康に伝わったのではという説。
3.光秀のいとこの明智秀満が天海とほぼ同年齢ということから本能寺の変の後、坂本城で自決せず生き延び、坂本城の近くの比叡山に入り天海と名乗ったという説。
4.光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れ、落ち延びる際に民衆に襲われ命を落としたとするのは敗者を貶める説で実際は故郷の岐阜の山県市に逃れ荒深小五郎と改名し生きたとする説。
山県市は春日野局、お福が過ごした清水城の北東10kmほどの山奥。光秀が生きていたとすると、「当時10代だったお福と会っていたとしても不思議はない。ここには明智家の家紋・桔梗(ききょう)から「桔梗塚」と呼ばれている明智家の家紋・桔梗の入った二基の石塔があり光秀のものと言われる墓もあります。一方で中洞に伝わる異説では光秀は「荒須又五郎」と改名し豊臣の支配下においても密かに徳川家とも連絡を取りあっていたのかもしれない。秀吉の死後、自らの仇である豊臣家と徳川家康に味方するため関ケ原の戦いに出陣したがその道すがら川で溺れて死亡したとされる説がある。
5.光秀の子孫である明智憲三郎の説によると安土城での家康の饗応の際に光秀と家康の密談が行われており、家康は命の危険をその際に感じて、堺からの逃亡の準備をしていたという。この席には細川藤孝もおり、全てを知っていたという。さすれば細川家がそれほどの合戦における功績もないのに秀吉にも徴用され、家康のもと江戸時代にも肥後藩54万石という大きな禄をはんでいたことも納得出来る。
6.宣教師ルイスフロイスよると、光秀は信長の命により、信長と同様に兵を連れずに堺見学にいっている家康を討つつもりだったという説。これは近年、このことが記載されたルイフロイスの書簡が出てきており、この説も一部では有力視されている。家康を歓待するため家康と同じく織田信長自身もわずかな手勢で本能寺に宿していた。これは織田家の将来の禍根になりうる家康を簡単に討つための信長の作戦であったという。光秀はこの作戦の首謀者であったが、急遽、信長の命に背き家康ではなく信長を討つことになったという。
5と6の説によると この作戦を光秀は事前に家康に伝えていたので家康は光秀と秀吉にも討たれることもなく、無事に浜松に帰ることができたという。実際「神君伊賀越え」はさも大変であったと大げさに語られている。それを証拠に家康は本能寺の変の直後に浜松に帰った後、織田領であった甲斐、信濃を簒奪している。これは織田家に歯向かうことにほかならない。羽柴秀吉も光秀が大阪周辺で家康を討つことを知っており、備中高松城を攻めながらもいつでも大阪に向かえるよう物資を運ぶ船も用意され、信長の中国参陣のための宿舎にも兵糧をおいて大阪に向かう準備をもしていた。羽柴秀吉は信長が打たれたと聞いて、家康が光秀と手を組み強大にな勢力になる前に大返しをして光秀を討つ必要があったのではないか。その後秀吉は信長も危険分子と判断していた家康を排除するため、小牧、長久出で倒そうとしたがかなわず結局失敗。豊臣家は信長の予想通り豊臣家は強大になった家康にに滅ぼされた。
一連の流れから家康は光秀への恩義を忘れることなく、徳川家はすべからく明智家ゆかりのものたちにほどほどの境遇を与えたといえないだろうか。本能寺の変の首謀者の斎藤利三の子孫を目立たない程度に徴用したこともうなずける。1か2の説からも家康は天海を重用したこともうなずける。 平和を願った光秀に恩義を感じ光秀の戦のない世を作るという遺志を受け継ぎ、天海の風水秘術により確立したのが江戸幕府、そして当時世界最大の都市江戸だったのかもしれない。

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